対馬国 つしま


 九州と朝鮮半島との中間にあって、その自然的環境から古来、大陸文化移入のかけ橋となっていた。『古事記』に津島、『日本書紀』に対馬嶋とあって大八洲の一つとして伝承されている。中国の『魏志倭人伝』の倭人の条には「対馬国」とある。そこには「倭人の国あり、卑狗・卑奴母離などの官がおかれ、女王国に属す」とある。住民千余戸、海物を拾集して生活し、船に乗って南北に赴き、食物を交易したとある。下って『随書倭国伝』にも「都斯麻国」とある。日本の大陸進出においても、また大陸からの来寇の際にもその通過地点となり、伊刀の入冦、文永・弘安の役、文禄・慶長の役など、しばしば戦火に見舞われた。『日本書紀』の天智天皇6年11月の条に、朝鮮半島経略を放棄したとき、その防備のため対馬に金田城を築いたとある。その財政は九州および壱岐が負担することになった。国府は厳原の地に置かれ、上県・下県の2郡に分かれ、郡司は国造の子孫が任命された。古代末期には阿比留氏が在庁官人として土着して勢力を振った。中世になると太宰少貳武藤資能の守護国になったが、その下にあった宗氏は、武藤氏の権力を背景に勢力をえた。阿比留氏征討を契機に、これに代わり、さらに元冦の際に宗助国の奮戦が伝えられている。やがて14世紀末には宗経茂は対馬守護になった。やがて宗氏は高麗と交際して貿易の徳権を獲得し、島内の土豪を合わせ、15世紀中期には対馬を統一した。戦国時代もひたすら朝鮮貿易の利権を独占しつつ、やがて徳川幕府の統制下に入った。朝鮮との国交回復の功により、幕府から再び対鮮外交貿易の特権をえた。藩内の内紛をよく切り抜けて幕末におよんだ。明治2年(1869)、宗氏は藩籍を奉還し、新藩制によって厳原藩と改称されたが、明治4年(1871)、廃藩置県により、厳原県となり、まもなく伊万里県、翌年に佐賀県に属し、ついで三瀦県をへて長崎県に属することになった。



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